作家は、しばしば展開のみに走りがちである。

作家は、しばしば展開のみに走りがちである。

 

これだけ言っても意味が分からないだろう。作家は、小説家はもちろん、漫画やドラマの脚本家や演出家にも、はたまたテレビの構成作家にも置き換えられる。とにかく、そうした物語を作り上げる人々は、ストーリーの展開をとりわけ重要視することが多い。「全ての物語は変化の連続である」というようなことを有名な作家が言っていたような気がするが誰だったかは覚えていない。

ここで言う展開とは、例えば、映画の『千と千尋の神隠し』でいうと、

  1. 千尋が神の住まう異界に迷い込む
  2. お湯屋で働くことになる
  3. ある日腐れ神がやってきて接客をすることになる

といった、ストーリーに変化を生むセクションのことだ。

そして私自身は展開を重視することにある程度賛成である。その展開の一つ一つが、登場人物の小さな成長や、現実社会の風刺、或いは作者が伝えたい大きな主題を表すことも多い。斬新な展開にこれを読み解いていくことが、こうした物語を楽しむことだと私は考えていた。物語を楽しむ人は誰でも、そうしてストーリーを読み解いているのかと思っていた。

 

どうもそうではないらしい。

 

違和感を覚えた始めは『ONE PIECE』のことを友人と話した時だったかもしれない。友人は私に、あのキャラクターAが好きだ、Aのこういうところがかっこいい、などと言うのだ。しかし、私は最新のワンピースまで読んでいたにも関わらず、その話に良いレスポンスをすることができなかった。勘違いして欲しくないから言っておくが、私もまた『ONE PIECE』を楽しんで読んでいた。しかし会話中に思っていたことは一つである。

 

誰そいつ?

 

確かに、私は名前を覚えるのが大の苦手だが、主要登場人物くらいはちゃんと覚えている。その話題に出てきたのは主要とは言いがたいポジションのキャラだったし、登場したのは特定の回だけだった。単に友人たちが大のワンピースオタクであったという可能性もある。

 

しかし名前を知ってるキャラの話題でも、物語について言及する際には必ず次のような切り口で始まった。

 

  • 作品のA’ちゃんがかわいいよね!
  • 作品のB’がかっこいいじゃん!
  • 作品のC’とC’’の駆け引きが面白いでしょ!

 

うん、そうだけど、『A』はさ、○○を通して、青年のアイデンティティを確立していくお話じゃん?、『B』は△△を通じて神から離れ行く人間の葛藤を描いたものでね、『C』は頭を空っぽにして見れるコメディだけど、☓☓を見てこんな手法があったのかとびっくりしたよ……。僕は、そう思ったんだ……。

 

――――終了――――

 

友人知人と作品について語る機会があると、こうなることが多かった。或いは、一方的に見解を述べることになる。君は、どう思う? と意見を聞くこともあったが、「分からない」「言われてみればそうかもしれない」ばかりで、「僕はそうは思わない。というのも(理由)」などと議論を誘発する人はいなかった。遠慮しているのか? もしくは引いてるのか? と嘗ては思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

 

共通して、彼らが見ているものは物語の「展開」ではなかった。

彼らは驚くほど物語の「人間」或いは「人間関係」に注目していた。

 

生物としてのヒト、ホモ・サピエンスは、高度な知能を持っている。その知能は、約束やウソ、騙しといったような人間関係から進化してきたというのが有力な説である。心理学者・哲学者であるニコラス・ハンフリーが提唱した社会脳仮説(マキャベリ的知性仮説)である。そこから、人間関係だけでなく様々な用途に大きな脳が使えるように変異した。これが、脳容量がさして違わないネアンデルタール人と袂を分かつことになった原因と言われている。

 

ともすれば、人間の脳は、その由来として人間関係を判断することに最適化されていた筈である。となると、多くの人が登場人物の「人間関係」に注視するのは寧ろ自然なことである。物語全体が何を意味しているのかなどは、世界の法則がどうなっているかと同じくらい、彼らに関心はない。

 

先日、『侵略!イカ娘』の作者が、他の漫画家にボロクソに叩かれていたとツイッターで見た。私も高校生の時分にアニメを見たが、何が面白いのか分からなかった。イカ娘を押す友人に「どこが面白いの」と聞けば、「イカちゃんかわいい」と返答されて困惑したものである。おそらく、成功した作家の多数派は「展開」を重視するため、イカちゃんのかわいさだけで構成された『侵略!イカ娘』を認めることができないのではないか。そこで、冒頭の一文である。

 

作家は、しばしば展開のみに走りがちである。

 

成功した作家は、おそらく己の作品が認められたと思うだろう。ある一面ではその通りであるかもしれない。しかし、作家が意図するものを感じ取ってくれる読者や視聴者は、おそらく少数派である。

こう言うこともできる。売れない作家の作品には、必ずしも展開が悪くなく、構成としてはむしろ満点のものもあり、売れる本よりも優れることさえある。ただ、評価はされない。群衆は展開なぞに興味はないからだ。

 

あれよりも明らかに優れている筈なのに、なぜ理解されないんだ。なぜ売れないんだ。こう思う作家はおそらく多い。展開だけ見れば極めて完成度が高い作品が、ひっそりと安置されているのを目にすることは実際にある。その時、おそらく作家は展開に走り過ぎている。

 

それが悪いと言っているわけでは決してない。寧ろ己の思うがままに作品を作る方が私は美しいと思う。

ただ、爆発的な人気を取りたければ、登場人物と群衆がコミュニケーションが取る要素が必要になる。全体に複雑な意味を持たせるとしても、誰にでも好かれる蜜を、筋道にぽつぽつと落としていかねばならない。容易なことではない。これにもまた、途方も無い才能が必要になる。

 

多くの人に好まれるということは、多くの人に共感を持たせなくてはならない。多くの人に共通するものに作用させないといけない。共通するものとは、普遍的な遺伝の基盤である。生物としてのヒトが、より原始的に反応できる要素を探しだして積み込まなくてはならない。そのうちの一つは間違いなく「人間関係」である。

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アイスバケツチャレンジについて思ったこと

アイスバケツチャレンジという言葉がTLで流れてきたのは、多分数日前だ。

その時は「また民放のバラエティ番組が下品な企画でもやったのかな」と思ってスルーしたのだが、どうやらそうではないらしい。

簡単にこのアイスバケツチャレンジを説明すると、

指名されたら氷水を頭からかぶるか、募金するかを選ぶ

というもの。

アイスバケツチャレンジ自体は2014年のアメリカ合衆国が発祥。筋萎縮性側索硬化症の研究のために寄付するとか。チャリティーで氷水をかぶるのは昔からあるらしくその元々の起源は不明。ソーシャルメディアで起こったムーブメントらしく、有名人がこのアイスバケツチャレンジ(もう面倒だから以下IBC)に立て続けに参加したことでムーブメントが加速、他国にまで広まったとか。

これだけ聞くと良いことのように思われがちだけれど、自発的な寄付ではない点や、いじめに利用された点などが問題となり、物議を醸しているらしい。

というわけでこのIBCについて思ったことを書こうと思う。

結論から言うと、この企画には良い側面と悪い側面があり、真っ向から否定するべきではないし、盲目的に賛同すべきでもないと思う。

まず悪い側面。この氷をかぶること自体が超絶バカであり、楽しめる人とそうでない人の落差は非常に激しいだろう。そして、それ故に「楽しんで世間のためになることができる」というのと、「面白くないことを強要される」という二通りの人が、どうしても出てきてしまうだろう。そして更なる問題は、おそらくは前者の人間の数が多数派であり、後者の人間が追従せざるを得ない状況を作り出したことだ。前者の人間が多数派であると判断したのは、民放で未だにこういうバカみたいなことが平然と放送されており、多分それを楽しむ人もそれなりに多いのだろうという推測からである。

要するに、

A「次のチャレンジは……!?」

皆「「「おぉっ……!」」」

A「Bちゃんでーす!wwwww」

皆「「「ウェーーーーーーイwwwww」」」

こんな人たちのノリについていけないBちゃんは、さぞイヤンな思いをするだろうということだ。そして、その同調圧力から「イヤイヤ」募金を強要されてしまうだろうことが問題である。本来募金というものはそんな風にではなく、善意でもってなされるべきものである。ただ、イヤイヤやっている人ばかりではなく、おそらく多くの人はコミュニケーションの一貫として、楽しんでやっているのだろうから、ここは難しいところだ。力なき少数者の無視が起きやすいことが、問題点である。まぁこんなのは「イッキ飲み」強要にも言えることであり、別にアイスバケツチャレンジでなくとも起きていることではある。イッキ飲みと比較すると、命の危機が(適切な量の氷水ならば)無いというのが良いところだが、断った時に、単にノリの悪いヤツではなく募金もしない薄情なヤツだという悪い印象を植え付けるおそれがあるのが悪いところだ。

勿論良い点もある。

単純に、このIBCというムーブメントが多くの研究資金を集めてくれるだろうという点だ。というのも、多くの人はこんな機会でも無いと募金なんてしないだろうから。大震災や洪水などの目に見える被害ならまだしも、筋萎縮性側索硬化症である。視覚的インパクトが巨大な自然災害などと比較して少ないのは仕方がないし、その病の人々が昨日と比較して今日、より差し迫った状況になりうる人であるというのも想像しにくい。

そんな研究資金の集まりにくい病に、こうしたムーブメントによって潤沢な資金が集まるというのは、それ自体はとても良いことであり、(こういう言い方は良くないかもしれないが)作戦として優れている。そもそも、募金を呼びかけるだけではお金が十分に集まらないから、こうした運動が起きるのである。

以上。

募金をする人が偉いわけではない。しかし、普段から募金もせずにこの運動をただ批判する人に説得力がないのは事実であろう。

あなたは募金をしているだろうか?

どうして人を殺してはいけないの?

「どうして人を殺してはいけないの?」

というのは、しばしば活性化される議論であり疑問な気がする。

何を馬鹿馬鹿しいことを、と思う人もいるかもしれないが、あなたはこの問いにきちんと答えられるだろうか。答えられるならよし。答えられなくてもよし。

この素朴な疑問に正解はあると私は思う。もちろん1通りではないとも思う。

 

もしこの問いを投げかけられたとき、相手が子供でなければ、私はこう答える。

「楽をするためだよ」

 

あらゆる生物の最大の目的は「生きること」である。生物を生物たらしめているのは「生きている」かどうかである。そして、最も避けなくてはならないことは「死ぬこと」である。

ホモ・サピエンス(以下ホモサピ)というある一匹の生物が、一時的に飢えをしのぐのは非常に簡単だ。他のホモサピの獲得した資源を殺して奪えばいい。なにせ、ホモサピという生物は地球上のおよそあらゆるところに存在し、同時に資源を蓄える習性を持つからである。今や70億もいるものだから獲物には困らない。

しかし、ホモサピは社会を築く。社会というのは、ホモサピ同士が協力し、より生産力を高め、同種族が繁栄するための習性である。社会はホモサピだけが作るものではない。蟻や猿などの習性にも見られる普遍的なものである。社会の中では、ホモサピ同士では少なくとも安全性を担保しなくてはならない。誰もがいつ殺されるか分からないような環境下では、身体のリソースの大部分が警戒に割かれてしまい、ホモサピ全体の発展が著しく滞るからである。また、社会の中であらゆるホモサピは、他のホモサピの活動に依存して生活するから、他のホモサピが殺されてしまうのも大変困るのである。そもそも自分が殺されるなどもってのほかである。

社会の中では、一匹で生きるよりも、圧倒的に楽ができる。ホモサピに限らず社会性のある生物は、種族全体が楽をするため、社会を維持する。ホモサピは「憲法」やら「六法」やらを作り、それを守ることによって、ホモサピ自身を社会の一員たらしめているのである。

ホモサピを殺すホモサピが現れたら、ホモサピ社会はどうするか。考えるまでもないだろう。もはやそのホモサピは、種族全体に害を為す非社会的な生物だと社会型ホモサピから認識されるのである。要するにホモサピたちから「敵」であると認識される。いつ自分を殺すか分からないホモサピを野放しにしておくのは大変リスキーである。ホモサピにとって脅威となるホモサピ殺しは、後顧の憂いを絶つためにも、殺処分の対象となるのだ。ホモサピ殺しは突如として出現した70億という敵に怯えなくてはならず、生存競争の中で大きなリスクとハンデを背負うことになる。

「じゃあバレなかったら殺してもいいのか」

という疑問が上がるかもしれない。しかし、「いい」「悪い」という概念はそもそも社会の中でしか機能しないものである。社会の中で人殺しは「悪い」と決まってしまっているので、「人殺しをしてもいい」などという文は社会の中では成立しない。

ただし、忘れてはならないのは、人殺しを止めることはできないということだ。人間の精神は本質的に自由である。どんな優れた憲法があろうと、どんなにそのリスクが重くとも、殺人者は一定数出てきてしまう。なぜ殺人を犯すのか、その理由は人によって異なるだろう。社会に対する理解が未熟だった、リスクを背負ってまで殺さなくてはならない人間がいた、生きるために仕方なく、など。自分の「生きる」は「社会を維持する」に優先される。しかし時として「社会を維持する」ために人は人を殺すこともある。

 

「どうして人を殺してはいけないの?」という疑問に対する私の今の答えは、「そのように社会が決めたから」であり「その社会を守る限り我々は生きる上で楽ができるから」である。もし社会が我々に、一人で生きるよりも大変な労力や無視できないリスクを背負わせた時、殺人者は著しく増加するだろう。その殺人者は、無差別に人を殺すかもしれないし、70億を敵に回す恐怖に負けて、自分で自分を殺すかもしれない。