どうして人を殺してはいけないの?

「どうして人を殺してはいけないの?」

というのは、しばしば活性化される議論であり疑問な気がする。

何を馬鹿馬鹿しいことを、と思う人もいるかもしれないが、あなたはこの問いにきちんと答えられるだろうか。答えられるならよし。答えられなくてもよし。

この素朴な疑問に正解はあると私は思う。もちろん1通りではないとも思う。

 

もしこの問いを投げかけられたとき、相手が子供でなければ、私はこう答える。

「楽をするためだよ」

 

あらゆる生物の最大の目的は「生きること」である。生物を生物たらしめているのは「生きている」かどうかである。そして、最も避けなくてはならないことは「死ぬこと」である。

ホモ・サピエンス(以下ホモサピ)というある一匹の生物が、一時的に飢えをしのぐのは非常に簡単だ。他のホモサピの獲得した資源を殺して奪えばいい。なにせ、ホモサピという生物は地球上のおよそあらゆるところに存在し、同時に資源を蓄える習性を持つからである。今や70億もいるものだから獲物には困らない。

しかし、ホモサピは社会を築く。社会というのは、ホモサピ同士が協力し、より生産力を高め、同種族が繁栄するための習性である。社会はホモサピだけが作るものではない。蟻や猿などの習性にも見られる普遍的なものである。社会の中では、ホモサピ同士では少なくとも安全性を担保しなくてはならない。誰もがいつ殺されるか分からないような環境下では、身体のリソースの大部分が警戒に割かれてしまい、ホモサピ全体の発展が著しく滞るからである。また、社会の中であらゆるホモサピは、他のホモサピの活動に依存して生活するから、他のホモサピが殺されてしまうのも大変困るのである。そもそも自分が殺されるなどもってのほかである。

社会の中では、一匹で生きるよりも、圧倒的に楽ができる。ホモサピに限らず社会性のある生物は、種族全体が楽をするため、社会を維持する。ホモサピは「憲法」やら「六法」やらを作り、それを守ることによって、ホモサピ自身を社会の一員たらしめているのである。

ホモサピを殺すホモサピが現れたら、ホモサピ社会はどうするか。考えるまでもないだろう。もはやそのホモサピは、種族全体に害を為す非社会的な生物だと社会型ホモサピから認識されるのである。要するにホモサピたちから「敵」であると認識される。いつ自分を殺すか分からないホモサピを野放しにしておくのは大変リスキーである。ホモサピにとって脅威となるホモサピ殺しは、後顧の憂いを絶つためにも、殺処分の対象となるのだ。ホモサピ殺しは突如として出現した70億という敵に怯えなくてはならず、生存競争の中で大きなリスクとハンデを背負うことになる。

「じゃあバレなかったら殺してもいいのか」

という疑問が上がるかもしれない。しかし、「いい」「悪い」という概念はそもそも社会の中でしか機能しないものである。社会の中で人殺しは「悪い」と決まってしまっているので、「人殺しをしてもいい」などという文は社会の中では成立しない。

ただし、忘れてはならないのは、人殺しを止めることはできないということだ。人間の精神は本質的に自由である。どんな優れた憲法があろうと、どんなにそのリスクが重くとも、殺人者は一定数出てきてしまう。なぜ殺人を犯すのか、その理由は人によって異なるだろう。社会に対する理解が未熟だった、リスクを背負ってまで殺さなくてはならない人間がいた、生きるために仕方なく、など。自分の「生きる」は「社会を維持する」に優先される。しかし時として「社会を維持する」ために人は人を殺すこともある。

 

「どうして人を殺してはいけないの?」という疑問に対する私の今の答えは、「そのように社会が決めたから」であり「その社会を守る限り我々は生きる上で楽ができるから」である。もし社会が我々に、一人で生きるよりも大変な労力や無視できないリスクを背負わせた時、殺人者は著しく増加するだろう。その殺人者は、無差別に人を殺すかもしれないし、70億を敵に回す恐怖に負けて、自分で自分を殺すかもしれない。

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実はブログ初めてなんです。

「男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり」

というのは、紀貫之『土佐日記』の書き出しである。

先駆者はいつだって、先駆けた瞬間にその偉大さを理解されることはなかった。
リンカーン、チャップリン、アインシュタイン、エジソン……。何度も人々に酷評を受けた彼らは、しかし、後世で誰よりも畏敬の念を集めることとなった。

「男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり」

文字を起こした紀貫之はどんな心情だったのだろうか。
分をわきまない女だと思われないだろうか、生意気なやつだとけなされないだろうか、浅学極まりないと非難されるだろうか。そんな思いがあったのだろうか。
しかし、彼女は書き始めた。そして、平安時代から今に至るまで、絶えることなく受け継がれてきた。
彼女のような偉大な物書きになるための一歩として、私はここにブログを開設しようと思う。

ブログというものを拙者もしてみんとてするなり。

 

大嘘である。

 

20余年生きてきて、ブログを初めて開設した。先駆者追従どころかロジャースの言うところのラガード(Laggards:遅延者)もいいところである。本当はブログ機能も自作したかった。しかしブログを作るとなるとPHPをはじめとしたプログラム言語を学ばねばならぬ。PHPを使うにはサーバを借りねばならぬ。サーバを借りるには月額およそ500円を支払わねばならぬ。お金を払うには稼がねばならぬ。

そんなわけで、WordPressBlogを活用させていただくことにした。
もしかすると全然更新しないかもしれないが、たまに「嗚呼ブログがあったらなぁ」と思うことがあるので、後顧の憂いを絶つためにも、ひとつ作っておくことにした。
もしかしたら「紀貫之は女~」みたいな、赤面ものの間違いをすることがあるかもしれないが、そんなときはフフフと笑ってズバッと指摘して欲しい。

長い前置きであるが、記事の方はなるべく簡潔に纏めたいと思うのでどうぞ宜しく。